The price of everything for me


 
※以下、TwitterやInstagramに投稿した文章をそのまま載せています。記録としてこの場所にも残しておきたいと思いました。


先日"The Price of Everything"という、美術とお金の関係について言及したドキュメンタリー映画をみました。

「美しいものには価値がある」 
という概念を根底に置き、美術に携わる人々がそれぞれの立場から、年間560億ドル規模のお金が動く 現代の美術市場について話をします。

アーティスト、コレクター、研究者、競売関係者....

たとえば、「お金は需要と供給が生む当然の帰路の一つ」 だと理解は示しつつ、「富裕層相手に、アートをまるで肉の様に競売台に乗せるなど異常だ」と話す美術史家がいる一方で、「美術館はたくさんの日の目を見ない所蔵品を抱え込んだ、まるで墓場のようなところ」と揶揄するサザビーズの人物がいました。
美術とお金に対する考え方、どちらが正しくどちらが間違いだと決める気は起きないけれど、「高いから優れているのか」 「優れているから高いのか」、映画を観ていて私個人が抱く美術への価値観を何度も見失いかけました。

美術品を前にしたときの想いや美術とお金の関係を捉え直す貴重な機会になりました。



話は(急に)変わって、5月13日。
サザビーズでクロード・モネの睡蓮の絵が77億円で落札されたというニュースを目にしました。
巨匠の作品が高額な値で落札されるというニュースは、ど派手な祭典が開かれたときみたいに、たとえ遠くの出来事でも自分の胸が騒めくような気分です。

その胸の高鳴りのままにサザビーズのホームページにいけば、同じ日にエゴン・シーレのドローイングも落札されていたことを知りました。私はシーレのこの裸婦の絵が純粋にとても好きだと感じました。その絵はおよそ4億円で落札されました。

サザビーズのサイトには、落札された作品の解説も詳しく記載されていました。
(翻訳アプリをバリバリ駆使して)それらを読み進めていると、同時代に描かれたモディリアーニの人物画やオーギュスト・ロダンのドローイングと比較をしていたり、背景の描き方、中心から外れた被写体の配置などをシーレが関心を抱いていた日本美術の形式的特質と結びつけていたり、細やかでおもしろい、そして私にとって学びとなる文章ばかりでした。

この絵について特に秀でているのが、太いクレヨンで描かれたその「線」だといいます。
光と影、空間、モデルの女性をどこに位置付けどう特定するかよりも、流れるような輪郭にのみ焦点を当てています。その線は自信に満ちており、あらゆる情報が不鮮明でありながらも、彼女には「生きている」という強くてシンプルな存在感があります。

シーレのドローイングが私は大好きなので、ここで久しぶりに自分の持っているドローイングの本を読み返すことにしました。サイトでも言及があったことですが、シーレの描法の変遷について語るとき、この絵が制作された1917年という年は非常に重要な節目であると知りました。

1917年、というのはシーレが兵役から解放された年です。創作活動に新たな活力が生まれ、芸術的アプローチに変化が見られた"繁栄の年"だといいます。1915年から16年にかけて戦争のため創作活動が中断されていたことをふまえると、28歳という若さで亡くなる1918年までのおよそ2年間、制作数は目に見えて多くなります。

サザビーズは、この時期のシーレは戦前の熱狂的で性的に露骨な作風から、よりエレガントなスタイルへと変化していると述べています。人物の柔らかい描写と、彼の名声を高めた挑発的でエロティックな響きとが組み合わされている。安らかなポーズではあるが、そこには動物的な強さがあって、1910年代初頭の歪んだ人物像と同様に力強さがある、と。

"開放"によって、芸術に対するさらなる情熱と完全なる自分だけの様式を手に入れたのです。

その話を聞いて鳥肌がたつほど嬉しくなりました。どんな思いで筆を走らせ、表現において着実な躍進をみせる自分の腕にどんな感覚を覚えたのか。

私には、この絵が幾らで売れて誰が所有したのかという事実よりも、ときには作者の感情まで深掘りしたくなるような、制作にまつわる歴史の方が大事でした。それは映画"The Price of Everything"に登場したある美術史家の考え方と重なっていると薄ら感じています。



一、二年ほど前のこと、仕事終わりにデパートのなかの画廊に寄って(完全に鑑賞目的で)絵を数点観たことがありました。そこでラウル・デュフィの薔薇のドローイングに目が留まりました。
デュフィといえば、画面全体がピンク色に包まれた《30年、或いはバラ色の人生》という絵が有名かもしれませんが、黒インクのみで描かれたその薔薇の絵もたいへん美しかったことをよく覚えています。
絵の下に「¥400,000」と印字された値札を見つけました。絵画作品をみるのはたいてい美術館・博物館であった私には、その画廊でみる光景は新鮮でした。芸術的価値がイコールお金で扱われている、その世界、その認識を、(画廊に寄ったというだけですが)自分の芸術体験のなかに取り込むきっかけになりました。
まぁでもやはり、作品を鑑賞するうえで私にはあの値札がちょっと邪魔でした。


今日6月12日は、エゴン・シーレが生まれた日です。私は5月に落札された裸婦の絵以外にも、サザビーズのホームページで過去に取引されたシーレの絵を一気にみていました。
落札者、落札額、そんなことよりも私には、オークションという出来事を通して、私のような立場でも大好きな画家の、今に残る軌跡を辿れる有り難みの方が重要でした。

画家への愛が空回りして、大学時代のゼミ発表ではうまく考察がまとまらないまま失敗に終わってしまったことがあります。そもそも私は、エゴン・シーレの絵を生で観たことが人生で一度しかありません。

それでも、こうして勝手気ままに、画家への愛や知識欲を頭の中で膨らませていく行為を、格別に楽しいと感じています。これから先、シーレの絵の前に立つ機会があったらいいなと今はその瞬間を待ち望んでいます。


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