ピンク色の慈愛




本棚に何年も潜んでいた伊藤計劃の『ハーモニー』をようやく読み終えることができました。内容の充実さに満足しつつ、その内容による痼(しこ)りが心の裡に残っている感覚です。
医療の発展により生理的な痛みや病気が完全に近いところまで排除され、人々の行動や感情までもが統制される近未来のディストピアの話『ハーモニー』
伊藤計劃は、遺作となるこの物語を病院のベッドのうえで執筆していたそうです。




この作品との出会いは、学生時代、就職活動をしていた頃に観たノイタミナ(フジテレビの深夜アニメ枠の名称)のアニメでした。
ノイタミナが「Project Itoh」と題して伊藤計劃の原作小説3作を劇場アニメ化していく一大プロジェクトを企画しました。




わたしはこのアニメに随分と影響を受けたと思っています。

娯楽という意味では、3作品のうちでも「魂の重さは21グラムである」ことを知った『屍者の帝国』が特に好きでした。
当時の投稿をみると『ハーモニー』についてはっきり「特別好きではない」なんて言っちゃってて、けれども世界が「善い」と信じて突き進んで、人体がことごとく標準化へと進み、慈愛に覆われた支配について描くこの物語は、当時の(就活スーツ姿で作り笑いをしながら意味不明な綺麗事を発言し続ける日々に辟易していた)自分にとって、至極強烈な問題提起でした。
だから繰り返し、今日まで繰り返し観ました。
いつしか大事な、そして紛れもなく好きな作品になっていきました。
世界が慈愛に覆われる、善意の海に溺れていく、その苦しさ忌々しさを、少し先の未来で新たに構築された社会システムを舞台に、実に丁寧に描いているなと原作を読んで改めて思いました。
人々が身体の内側から社会的評価で雁字搦めにされ、健康を謳わなければいけない世界、自分という存在の情報を外側へ晒して、言わば社会の人質とされる世界、そして過剰な慈しみが生む静かな残虐性。



わたしが『ハーモニー』を好きな理由は、紛争や自殺が無くならないという意味も含めていまと地続きであるディストピアを知ることで、いまの世界に疑念を抱いたり、自分の生き方や社会の流動的な出来事について意見を持てる機会が増えたからだと思っています。
特に生き方について。
医療の発達や健康志向のせいか、わたしの生きる現代でも、生活、キャリア、健康管理、社会秩序に対するあらゆる「理想」が形作られ、適切とされる「基準」が量産されている気がします。
それに則って生きることは個人の自由であり、もちろんその選択はまったく悪いことではないのだけれど…
では選ばなければ、適切から外れてしまったらどうなるのか。

時折『ハーモニー』の世界がチラついてならないのです。

嗜好品から距離をおくこと、不摂生を忌み嫌うこと、セルフコントロールできているか否かで他人を評価すること、生活から微細な不快感すら徹底的に排除していくこと。
人生100年時代という言葉が世間で使われだした頃、わたしは随分と(生きる気力を失うくらい)落胆したことを覚えています。わたしの人生観はもっと、気楽で、気分的で、力の抜けたものだったから。
いつしか基準が規律となり、義務となり、刃のように襲いかかってこないか、時の為政者による意志の制御にまで発展しないか、もしくはその制御に対して過剰な行動へと発展しうる憎悪が生まれやしないか、世の中とわたし、両方のこれからを、単純で一義的なハッピーエンドを望まずに、また悲観的になりすぎずに、どうか見つめ続けていきたいです。



「慈愛のあふれる社会の八割は、ピンク色の建築とラベンダーの香りでできている。」
本でもアニメでも、未来の日本は淡いピンク色で構築されています。ピンク色の付箋を貼りながら読み進めて、読了後に本のうえに現れたのはまさしく慈愛の色をした建築群でした。


※『ハーモニー』の世界や、それに地続きのように見えるいまの世界に、あらゆる面で不満を抱いていることを書きましたが、わたし自身だってDBS (=Disclosure and Barring Service、子どもに関わる職業および活動に携わる際に犯罪歴の照会を義務付ける制度)には大いに賛成だし、加害者より被害者にやさしい法律改正を望んでいるから、成人が自分の社会評価を常に公開することを強いられる物語の世界に、批判側に立ってあれこれ言える立場でないことも心得ておかなくては。



0コメント

  • 1000 / 1000