美(かな)しみを、一生かけて考えたい




今君は何か思っている、その思いついたところから書き出すと良い。

ーヘンリー・ミラー






配信というかたちで多くの映画と出会える時代になりました。


私も様々な映画を観るようになり、人との会話のなかでおすすめの映画を問われることが増えてきました。


少しだけ困惑します。
感動する、涙を流す、胸がときめく、恐ろしい、難しい…映画を前にした私たち。そこに様々な感情が生まれますが、おすすめなんて、私はその人にいったいどんな感情が生まれる作品を観てもらいたいのか、そういうことを悶々と考えて、なんだかよく分からなくなってしまうのです。

…そういえば私は昔から、心の底から魅了されて堪らなく好きになるものでも、それをオープンに人に話したり、勧めたりすることが不得意かつ苦手でした。心に訴えかけるなんて、そう簡単にできることじゃない。互いに素晴らしいものに触れる機会が増えたらいいと望んでいるのに、なぜか相手に発信する手前で篩(ふるい)に掛ける動作が加わってしまう。

さらに言うと、最近になり私の映画の好みは昔とは若干変わってきて、好みに偏りができたように思えるから、果たして私の中の変化や歪みをそのまま「これ良いんだよ」と相手に委ねていいものだろうかと、躊躇ってしまいます。


近頃は悲しい映画が好きです。
それは、バッドエンドを好むというより、どちらかというと映画全体に漂う空気のことだと自分では思っています。音や映像に漂う、静かで陰鬱な情調。それから本来は目に見えない透明な思いが、水面に生まれる波紋のように静かに響きわたる作品。

楽しさや温かさや興奮や緊張を感じる映画だって大好きですが、私の芯となる嗜好のなかに、心(うら)悲しさや翳りが加わってきました。


今、思い浮かべられた作品を一部だけ。




全てに焦点を当ててはキリがないので一つ一つの粗筋は割愛しなければなりませんが、これらの映画には煌びやかで、晴れやかで、明解なものが存在しない気がします。観た後に何日も考え込む、ちょっと複雑な見応えを覚えます。

空が思いきり澄みわたった快晴というより、
雲に覆われた物寂しい一日、そんな感じです。


(この文章を読んでいる人のなかで、これらの映画を観たときに私が持った印象と違う感覚を持っているかもしれないのに、私がここで一概に「悲しい」と括ってしまうことを許していただきたい)

私はこれらの映画について過去に感想を残していました。

「静謐で崇高な空気が広がる」「深遠な世界」「深い海の底のような」

何より繰り返す「悲しくて美しい」という思い。



この感覚は何なんだろう。
鬱蒼としたものに覆われて、悲しみに心惹かれていることを否定できない。それが自分で気掛かりでした。よくないものに心が依存しているのではないかと。
悲しみとはマイナスの感情であると、感じることこそが不幸だと信じて疑わなかったからです。悲しみのない人生の方が幸せに決まっている。


そんな私の中で「悲しみ」に対する概念が変化しだしたのは、大学生の頃でしょう。

大学四年生、卒業を間近に控えた冬の日。
その日は卒業論文の試問が終わって、私は同じゼミの女の子と大学近くのカフェでお茶をすることになりました。その子とはゼミ以外で会う機会も話す機会もほとんどありませんでした。
ただ、いつも聞いていた彼女の研究発表は綿密な文章と耳に心地よい進行が合わさりとても綺麗なもので、なおかつ彼女自身の振る舞いやファッションからは洗練された大人の雰囲気を感じました。これまで彼女が題材に選んでいたモローやビアズリーや、卒論のテーマに選んでいたカラヴァッジョ、一番好きだというラ・トゥール…そういった芸術が彼女の佇まいに合っていてそんなところも好きでした。

芸術の話、本や映像作品の話。
時々「生きる」とか「美しい」とかの話。
そういう時間でした。
深い思慮と感性の持ち主で、彼女の言葉に心から納得したり共感するという瞬間が度々ありました。あれは時間を忘れるくらい大切なひとときでした。

私はその時も、悲しみを纏った作品について話題にしました。
「悲しい。けれど、なぜか綺麗だと思って…」と曖昧な調子で話し出すと彼女は、
「悲しいから綺麗なんだよ」
と真っ直ぐに答えました。
今でもその瞬間を鮮明に覚えています。

あぁそうか、と。
当時私は「自分の脳がパカッと開くほどの重たい感動だった」なんて表現をしています(笑)

大学を卒業して何年も経とうというのに、あのカフェでの出来事は今でも度々思い出します。それくらい大きな衝撃だったのです。



一年ほど前に、私はある方の本を手に取ります。

若松英輔さんの著したエッセイ集『悲しみの秘義』では、まさにその"悲しみ"の大切さについて述べられています。深い悲しみを生きることは、深い人生に変わると言い切っています。



そして私が前々から不思議に感じていた「悲しみと美しさ」の関係についても、






映画の話に戻ります。
私がつい最近、雷に打たれたような体験をしたのが、あるテレビ番組でマツコ・デラックスが映画について語ったときでした。

「バッドエンドが好きということではないけれど、ハッピーエンドの映画が嫌いなの(笑)あたしね、尾を引きたいのよ。観た後によかったー!面白かったー!でその時だけスカッとして終わるのは嫌なの。一生かけて考えたいの。」

尾を引きたい、一生かけて考えたい。
私が言いたかったことの本質を言われたような感覚でした。




「悲しみを葬ってはいけない。」

『君の名前で僕を呼んで』でエリオの父親も言っています。悲しみは、楽しさや嬉しさと同じくらい、もしくはそれ以上に、人生のなかで経験することに大いなる意味がある感情かもしれません。もしかすると、命の輝きのようなものかもしれません。すぐに言葉に紡げないものでも、正解に辿り着けないとしても、これから先もずっとそのことを慈しんでいきたい。一生をかけて。

歳を重ねるにつれて私はあらゆることを知り、あらゆることを忘れ、表面的な情報に振り回されるように生きていますが、一方で私の中に名前のない思考の数々が蓄積されていくのだと思います。もっと根源的で、か弱い光のようなものが。

悲しい映画は、私の人生に深く浸透していきます。






追記

先日『海辺の生と死』という映画を観ました。
日本の敗色が濃くなりつつある太平洋戦争末期。奄美諸島の小さな島を舞台にした映画です。

島の国民学校の教員であるトエと、その島に新たに赴任してきた海軍中尉の朔(さく)。
島にゆっくりと流れる時間そのままに、静かに、清らかに、熱く、想いを重ねていく二人の話です。
海軍の特攻隊長だった島尾敏雄さんの実際のお話がベースとなっています。

人々の言葉、声の調子、歌、海や風の音など、奄美の島の空気がまるで目前に広がっているかのように、生々しく伝わってきます。

トエを演じた満島ひかりさんの、純朴さと儚さと、狂気にも似た熱のある演技は、すべてが実に神々しいものでした。


ぞっとするくらい美しい映画でした。



満島ひかりさんが映画の舞台である奄美諸島・加計呂麻(かけろま)島のイメージを受けて、「生と死の境」にいる感覚を形作ろうとした音楽作品が『群青』という楽曲です。

この曲のミュージックビデオを見ていると、海の底に沈んで降り注ぐ光を受け止めている心地よさと共に、ゆらゆらと揺蕩(たゆた)い、美しい自然に命を預けているそんな不思議な感覚を持ちます。
EGO-WRAPPIN’ に楽曲提供のオファーをして誕生したそうです。


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