自分を不幸だと思ってはいけない

会社を一日休んで病院に行った。

10年以上何も起こらなかった病気の症状がこの1年くらいだんだんと、明確に現れてきた。

見てみぬふりをして市販の薬を飲んで誤魔化したり、そろそろそういうことも効かないとわかって、常につき纏う痛みとかしんどさとか、諸々の悪い部分をきちんと治そうと(やっと考えられるようになって)、うんと久しぶりに専門の病院に行った。

発症原因がわからない難病指定されている病気で、完治の術は今のところなく、症状がたとえ何年も出ないからといってその病気との縁を断ち切れたとは言えないらしい。

改めて一生付き合っていかなきゃならないのかと自覚させられて、ほんの少しだけ落ち込んだ。

「ほんの少し」というのは、私がこの病気の治療に関して、比較的辛い経験を避けてこられたから、

「腐れ縁かよ、めんどくせえなぁ」

というような軽いノリでいられるのだと思う。

同じ病を抱えている人のなかには、食べるものや行動を極端に制限させられたり(私も発症当時に経験したからその辛さは分かる)、身体にメスを入れて、大腸を一部切り取ったり、管をひいて栄養を取り込んだり。
何十年も痛みと隣り合わせで、普通の生活ができない人もたくさんいたことは知っている。

私は、症例としては一番幼い年齢で発症したらしい。ただ、両親が慣れないパソコンを使ってその病気を専門に扱う先生をすぐに見つけてくれた。
先生がいる病院は、車で10分程度の、驚くほど近い場所にあった。

先生の治療は腸を切ったり管をひいたりするものではなく、先生が独自に開発した漢方薬を飲むという、シンプルなものだった。
好きなものも食べて良いし、症状が良くなれば病院に来なくてもいいと言ってくれた。「病院に来なくていい」と言う先生は初めてだった。

そんなザ・シンプルな治療のおかげで、一時ボロボロだった私は普通の身体に戻ったし、普通に学校に通って、大学に行って、普通に働けている。

頑張ることも、怠けてしまうことも、楽しんだり悲しんだり、自由に選択して生きていられる。

先生のあのときの言葉を、今回も都合よく自分に言い聞かせてしまったのかもしれない。
何年ぶりかに会う先生は、相変わらず挨拶も治療もあっさりとしていて、採血をして薬を貰っただけだった。行く前は「再発」の二文字が脳内をよぎって若干ドキドキしていたのに、何も恐ろしいことはなかった。

一日一錠、薬を飲んで、あとは経過観察。
またしても簡単なことだった。

母にもそのことを伝えたら、

「病気になったからって、自分は不幸だと思っちゃだめだよ。こんなに近くで先生に会えたんだから、耀は幸運だよ」

と言われた。確かにそうだと思った。

病院の待合室で、江國香織さんの『日のあたる白い壁』を読んでいた。

27の絵画作品から成る彼女の美術体験を、心のままに自由に書き連ねたエッセイ。 

別の誰かの、美術に触れたときの内的な文章を読むのはとても楽しいと、この本を読みながら思った。

私はもっと自分の身体を大事にできるようになりたい。
自分のことを労り、好きなこと、美しいもの、
大切なことに向き合うとき、
そのときできるだけ健康で自由な状態でありたい。

はやく元気になろう。

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