曖昧で形のない話


私の意見が何においてもいつでも正しいなんて思わない。そして相手の言っていることがいつでもおかしいとも思わない。
何が正しいのか?
でもこれは正しさの話ではない。

たとえ私が「こうだ」と思う事柄とズレた主張を投げかけられたとしても、きちんと耳を傾けようと思っている。その人が立っている場所でしか存在しない状況と価値観と視点があるのだから。
たとえ無理でも、それを理解したい。

誤りだと思うことを冷静に論じられる人は素晴らしい、けれどそうでない人もいる。相手への攻撃こそが意見を押し通す正義と思い込んでいる人がいる。言うまでもないが抗議と攻撃はどんなに混ぜても溶け合わない異質なものだ。

"端的"はあまりにもキャッチーでスタイリッシュに思えるから。しかし端的は正しさとセットになり得ない。


こんなフワフワした事ばかり書いて…これを読む人達にいったいどんな風に思われるか正直怖いけれど、今からもう少し思っていることを書いてみよう。


先日あるアーティストの方がインタビューのなかで「(今の社会は)大らかさがなくなってきた気がする」と話していた。一貫性を強要するというか、人の矛盾を突いて攻撃するような世の中になってきている気がする…そんな内容をひととおり読んだときに、あぁこれは稀にしか得られない感覚だが、胸にストンと落ちる話だと感じた。

もう少し彼の言葉を引用させていただく。

「僕は昭和の映画が大好きなんですけど、ああいう作品には、いい意味での多様性や矛盾のようなものがあるんですよね。矛盾の上に、振り切ったアートが生まれてるというか、その矛盾と自分が折り合いをつけるときに摩擦が起きて火花が散って作品が生まれているような感じがある。それに、基本的に人間が矛盾しているのは仕方ない。日々、すべての物事が移り変わる中で、誰しも外の影響を受けて変わり続ける。」

ピリピリと張り詰めた、僅かな矛盾も許さない空気は私にはどうも息苦しい。常に銃口を突きつけられているような気分になる。
相手を傷つけ粗探しをしている人達を見て、外にばかり気が向いて自らの内側に目を向けられないのだろうかと不思議に思ってしまうことがある。

一人でじっくり考えることも、人との議論を深めることも、生きるうえで大切だけれど、(ちょっとひとつ上からものを言うようで、偉そうで申し訳ないのだが)、相手を攻撃することが自分の考えを表明することであるように思っている人に、
どうか自分の中に簡単に敵を作ってしまわないでと言いたい。



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